話し上手と書き上手【森博嗣】新連載「日常のフローチャート」第5回
森博嗣 連載エッセィ「日常のフローチャート Daily Flowchart」連載第5回
【文章に紛れ込む自身の感情】
手紙が文章の練習になったかどうかはともかくとして、最も影響が大きかったのは論文の執筆だったと思う。論文を書き始めたのは21歳くらいだったはず。これを指導教官に手直しされ、文章というものの書き方を学んだ。
ただし、論文では客観性が重要だ。たとえば、今の文章を、「客観性が非常に重要だ」と書いたとしよう。この「非常に」に、書き手の感情が混在し、客観的にその重要性を強調する理由がなければ、無駄な形容となる。つまり、不要な表現である。
論文以外でも、状況を説明する地の文は、できるだけ客観的であるべきで、たとえば、「かなり近い場所で」などと書くと、この「かなり」がどの程度か、誰が「かなり」と感じたのか、何を基準に、何と比較して、という理由が必要になる。語り手がいる場合には、その人物の感覚となるけれど、そうではない地の文であれば、不要といわれてもしかたがない。
また、論文においては、明確な証拠、証明がないかぎり、断定するような言葉は使えない。実験の結果を述べるときは、それは見たままなので断定できるが、そこからの推論は「〜と考えられる」というように、推定が可能だ、としか書けない。また、文献に書かれている文章も、そのまま引用することは不可で、「〜と述べられている」のように、書かれていることだけを断定する。
最近のネットを観察していると、「誰某が〜といっていた」という呟きが非常に多いけれど、その場合は、その言葉があった場所(引用先)を示さないと意味がない。「〜のようなことを」とぼかした表現なら許されるかもしれないが、引用する意味が半減する。「〜のようなことをいっていた気がする」になると、自分は馬鹿だという主張とほぼ同じになる。
論文に書いた推論が間違っていた場合は、「考え違いであった」と謝れば済む。しかし、断定してしまうと、考え違いではなく、虚言、捏造となるので、当該文章だけではなく、筆者の信頼に関わる問題となるだろう。この場合、「だろう」があるので、これは推論であり、断定ではない。個人的な意見であることを示している。